トップへ戻る まえがき 著者にメールする 掲示板に感想書く
1.なぜ中判 2.どうやって中判 3.今日から中判 4.デジタルプリント
5.ああ中判      

 

更新日 2002/07/04

第一章 なぜ中判

まず感覚から

目で見る 

中判というと"ブローニー"とか120とか言う幅が60ミリ(有効画像エリアは56ミリ前後)のフィルムを言うわけです。広く使われている35ミリにはフィルム幅がその名の通り35ミリで、有効画像幅は24ミリ前後です。要するに中判はフィルムが大きく、それに応じてカメラもデカイだけなのですが、いったいそれが何なのでしょう?それをこれからお話しします。

近年は技術が発達して、わたしも幸か不幸かその恩恵を被って仕事に活用しています。特に日本の技術は大変素晴らしい物があります。自分がこれまでに作ってきた物は自分が日本にいなかったら確実に存在しません。技術は論理的であり、緻密な計算に基づいたものです。それが私たちの身の回りにあふれています。それに影響を受けて多くのことが論理や計算で理解されるようになってしまいました。物事はいわゆるスペックシートで表されることがしばしば。さらに計算機の中のバーチャルな環境に浸ることもしばしばです。

数字だけ考えると56ミリと24ミリは約2倍の違いです。ダタそれだけです。論理や計算ではタダそれだけです。写真フィルムは有限な粒子の大きさがあります。世の中にあふれている解説書に書いてあるとおり、中判の方が粒子の影響が少ないのは当然で、それは単に論理的な理解です。

問題は感覚、感じなのです。例えば名紙を考えましょう。いまの名紙の大きさが半分になったらどうでしょう。あるいは二倍になったらどうでしょう。半分になったらルーペを携帯しないと商談が始まりませんね。二倍になったら扱いが大変になります。つまり現実の世界では人間が直接ふれることの出きる大きさには最適な大きさがある、ということなのです。実際に見てみましょう。下は同じ画像をほぼ、35ミリ、645、6x6、6x7の実際の大きさにして示したものです(ディスプレイによって少し異なります)。

35ミリ

24x36mm
1 : 1.5

645

42x56mm
1 : 1.33

6x6

56x56mm
1 : 1

6x7

56x69mm  1 : 1.23

 

あとでもさらに述べますが、35ミリはかなり長方形です。大きさは一目瞭然です。645は35ミリが大きくなったという感触がありますが、6x6と6x7は別の物であることがわかります。35ミリではルーペなしでは写った様子さえ判別しかねます。

正確な話、これも実はコンピュータのモニターで写した感覚にすぎない。実際に、35ミリと6x6のポジをビューワで並べてみるとその大きな違いに気がつく。一コマ一コマの大きさだけではないと言うことに気がつく。35ミリはコマの間隔が小さいので、裸眼で見てしまうと非常にごちゃごちゃしてしまってある特定のコマを観察するなんて出来ないのである。さらに悪いことに35ミリはコマ送りの穴が開いているので、ビューワで見るとそれが目立ってしまって何を見ているのだか分からなくなってくる。比べて6x6の方は単純明快。自分のとった写真がそのまま目に入ってくる。

ここである"習慣"について考えてみましょう。我々は通常フィルムというと35ミリの事を連想するように社会的な環境が出来ています。子供の頃からポジフィルムを見て育ったという人はいないでしょう。フィルムといえば35ミリ、しかもネガを連想させます。従って、通常の人は子供の頃から「フィルム=目では直接見えない物」という図式が頭の中に出来てしまっています。ネガは当然目で見てもわからないし、ポジでも35ミリの場合はルーペがないとよくわかりません。(まあ昔は我が家にはスライドプロジェクターなる物がありましたが、いまそんな物のある家は非常に希です。)この「フィルム=目では直接見えない物」という暗黙の認識がまさに、フィルムを直接目で見ることの重要性を忘れさせているといえます。

ポジをルーペなしに直接透過光で見る、ということがどんなに素晴らしいことは実際にやったことがないとわかりません。それは本当に美しいものです。そこには現実の空間を切り取ってきた小宇宙があります。35ミリではこの感覚は決して生まれません。ブローニーサイズのポジを直接ルーペなしに見ることで始めて実感できます。ポジを透過光で見ることは、印刷・CRT等の現在のすべてのテクノロジーを駆使してもまったく追いつかないほどの最高の分解能・最高の色調・最高の階調を実現しているのです。写真表現としてこれ以上の媒体はありません。そして、これが写真として脳への最高の刺激になるのです。ポジを見て自分の写真を観察し、脳へ刺激を送ってまた写真を撮る。これは本当に素晴らしいことで35ミリではこの感覚は得られません。単にフィルムサイズが数倍違うだけなのですが、現実の生身の人間にとってはこの違いは本質的で100倍の違いとなって現れるのです。数値だけでは表せない現実の感覚、まさにそれです。

「世界」への入り口

一端35ミリの1:1.5の画角から離れると実は写真というのは非常に多様だと言うことが分かる。ブローニーは645に始まって、6x6, 6x7, 6x8, 6x9 と様々なフォーマット・画角があることが分かる。そしてあるフォーマットで撮れる写真というのは、別のフォーマットで撮れる写真とは違うのである。本でそういうフォーマットがあると知識として理解するのでなく、実際に自分で特定のフォーマットで撮ってみると本当に実感できる。中判でいろいろなフォーマットがあることが理解でき・実感できると、さらに4x5とか8x10とかの大判写真の世界もあることも気づくようになる。35ミリしか知らないと、写真というものは1:1.5のその画角でやるものだと言う非常に大きな思い違いを、自分では全く気がつかずにしてしまっていることがほとんどである。他のフォーマットで撮れる写真という世界が存在することも知らずに。もちろん中判をやることでその全部のフォーマットを体験できるわけではないが、別の素晴らしい世界に気づかさせてくれ、自分自身がその入り口を少しでもくぐることが出来るのは素晴らしい体験だ。

スリガラス

ポジを直接見ることと並んで中判の醍醐味はこのスリガラスにある。35ミリから中判へ入門しての最初の間違いはすぐにプリズムファインダーをつけてしまうことである。とにかく最初はじっくりウエストレベルファインダーで撮って欲しい。このスリガラスを見ての撮影が素晴らしいと実感できるには、自分で実際にやってみないと分からない。何がすごいかというと、そこにはまさに実際にポジフィルムになるであろう画像がそのままの大きさで見えているからである。「覗く」ファインダーでなくて、スリガラスに結像したものを見ているから感覚的にポジをビューワで見るのとほぼ同等になる。目の焦点が対象物でなくてスリガラスに来る。そしてそれがどうして重要かと言うと、対象物を直接見ている感覚と違うので、一種、精神的により落ち着いて、一歩冷めた感じで自分の絵を見れるのである。被写体そのものよりも、できあがってくる自分の「写真」がいったいどうなるのかに焦点を起きやすいのだ。さらに、落ち着いてスリガラスの絵を見ると、画面ないの全面にわたって注意が行きやすい。覗くタイプのファインダーは、しばしば被写体それそのものに注意が取られすぎてしまって、画面の端っことか、被写体の背景とかに注意がおろそかになりやすい。(もちろん訓練すれば覗くファインダーでも注意は行くように出来るが。)左の例でたとえると、スリガラスだと花の上が空きすぎとか、背景の黒の縦の部分がおかしいとか即座に分かるのだけど、覗くタイプは勢い花自身ばかりに注意が行きやすい。

論理思考の読者のためにここで解析を加えると、人間の目はどうしても目の焦点が合った部分にしか思考が集中しない。直接、ものを見た場合に背景とか手前にあるものとかは、画像処理されて意識から落ちてしまうのだとおもう。一眼レフのプリズムファインダーは一度スリガラスに結像させてから見ているので、目の焦点自体は奥行が反映されていないはずだが、なんか実際に目で見たような感覚が得られるのはおそらく覗くという行為によって生じる単純な「錯覚」によるものだと思う。その点、スリガラスを直接見る場合は目の焦点は数十センチの近くの物体を見ているので、三次元的な奥行き感がなくなり、画面に対して均等に注意が行くことになると推察する。まさに「絵」を見ている感覚、それである。

35ミリでもNikon-F4のようにウエストレベルのファインダーがあるが、あのフィルムの小ささがそのまま反映しれてしまって小さくてとても実用にはならない。拡大が必要で、結局覗くことになる。ウエストレベルファンダーの場合でも、ピント合わせのためにルーペを上げて「覗く」っということは必ず必要になるけれど、構図はスリガラスを直接見て確認すると言うことは常に重要。

実は多くのデジカメは液晶モニターで,「出来上がりの絵を想像しながら」撮影できるのでウエストレベルに近いともいえます。これは最近にしてはちょっと面白い現象です。中には液晶が回転できたり,手前に跳ね上げたりできるものもありますから,これらはまさに現在のウエストレベルファインダーですね。

このスリガラスの効用は間接的に他にもある。取られる人に威圧感を与えないと言うこと。被写体から見るとカメラマンの顔がカメラで隠れないので、何を考えているのか表情が読みとれて安心感を与える。プリズムファインダーでは人の顔にぴかぴか光るものが張り付いているわけで、表情が分からないし違和感がある。さらにスリガラスを覗くのはお辞儀する格好になるので、何となく「撮らしていただく」という格好になる。35ミリのF2.8のズームを振り回して(私も使っているが)周りに威圧感を与えながら「盗る」の対局に、二眼レフの小箱を覗きながら世界を静かに撮らせていただく、と言うスタイルがある。おもしろいのは全く同じ条件でも、こういった自分の撮るスタイルが違うと写真も違ってくる事である。フォーマットに関してだけでなく、そういう意味でも中判というのはとる写真の世界をものすごく広げてくれる。

スリガラスと少しずれますがウエストレベルファインダーの良い点は他にもあります。それは重量が重くなりがちな中判カメラをホールドするのに適しているという点です。そもそも人間の動作としてアイレベルまでカメラ(と限らず何でも)を持ち上げて、そこでしばらく保持しているというのはとっても不自然です。日常の行為を朝から夜まで考えてみてください。何かを自分の目の高さまで持っていて、そこで保持しているっていう行為は他に思いつきません。ご飯を食べるのは口の高さまでしか持ってゆきません。ですからカメラを目の高さまで持ってゆくというのは人間工学的に見て、不自然で不安定な行為なんです。通常のウエストレベルではちょうど自分のおなかの位置にカメラをホールドすることになり、その程度は人間は日常的にやっています。ですから、例えば2kgを越えるマミヤRBやRZになっても、この位置で手持ちで撮影することは非常に簡単に出来ます。当然、手持ちの際のブレなどもウエストレベルでは軽減することが出来ます。世の中の中判の本や記事で読者に大きな誤解を与えているのが「中判は手持ちではブレやすい」とくどく書いてあることです。それはAEの付いたプリズムファインダーではそうでしょう。しかし、ウエストレベルファインダーでは決してそんなことはありません。わたしは80ミリの標準レンズで1/30とか1/15なら日常的に使っています。

最後に蛇足とは言え重要なメリット。女の子を捕まえて写真を撮ろうとするときは必ず、「こういう風にして見えるんだよ」とスリガラスを覗かせてあげましょう。普通の子は35ミリしか知りませんから、「ワー、すごい!」って必ず言ってくれます。"普通のカメラとは違うんだ"という印象を与えて、単なるカメラ小僧ではないということをわかってもらって(実は大して違わない?)、「特別」なカメラで撮ってもらうという快感を盛り上げるには、とっても役に立ちます。スリガラス様様です。もちろん「フィルムもこんなに大きいんだよ」といって前に撮ったポジも見せてあげることもお忘れなく。ここら辺は中判の独壇場ですね。

媒体コスト

中判を始めようかと考えていらっしゃる方で、中判の方がお金がかかると思われているばあいがありますが、それはカメラ自身も含めて大きな間違いであることを、この本を通して紹介してゆきます。ここではとりあえずフィルムコストに関して述べます。ここでは町のXX分現像は除外します。わたしも記念写真や記録写真では使ってきましたが、あれは恐ろしいです。もちろん選びに選べばきれいにやってくれるとこもありますが、ひどいところはめちゃくちゃな品質の仕上がりになってきます。もちろんポジフィルムとなれば純正かプロラボへ行くしかありません。

ブローニー120と現像料が同じ24枚撮りを比較してみましょう。まずフィルム代金そのもの(ポジでISO100の場合)はブローニーが400円前後、35ミリが600円前後とブローニーがお得です。撮影できる枚数が違うじゃない、と言われるでしょうがこれは説明します。

現像料はプロラボの場合一般的に両者とも500円です。ブローニーでは645が16枚、6x6が12枚、6x7なら10枚の撮影が出来ます。それなら24枚"も"撮れる35ミリが得だと考えるでしょう。そうではないのです。まずあとで述べますが、撮れる写真が違うのです。取り方が違うともいえるでしょう。マニュアル操作中心で構図により重点がある中判では、自然と35ミリのAE/AF/モータードライブの場合と違って、一枚一枚にかける重要度が増してきます。35ミリではシャカシャカシャカっと撮ってしまいますが、中判では一球入魂で念を込めてシャッターを押してゆきます。わたしの個人的な感覚ではブローニー一本が35ミリ24EX一本という感覚がします。単純な枚数ではないということが言いたいのです。

次にフィルムの面積を比べてみましょう。35ミリは一コマが典型的に24ミリx36ミリ=864平方ミリです。24枚撮りは864x24=20736平方ミリとなります。一方のブローニーは、6x6で計算すると、56ミリx56ミリx12コマ=37632平方ミリとなり、現像料は同じでも実はブローニーの方が面積換算では81%も広いことになります。フィルム上の情報量という考え方ではブローニーの方が倍近くお得ということになります。

これもある意味で非常に感覚的な話ですね。面積あたりのコストはさておいて、実際にかかるお金という意味ではやはり何本撮るかということで決まってきます。これはその人の写真の取り方でまったく違ってくるわけですのが、中判の方がどうしても枚数は減ってきがちです。信じてください。

35ミリ・ブローニー フィルム代・現像代比較
 
撮影枚数
フィルム代
ポジISO100
プロラボ現像代
(ノーマル)
有効面積
プリントの
潜在的要求
35ミリ24EX
24枚
600円前後
500円前後
20736平方ミリ
ブローニー120
10-16枚
400円前後
500円前後
37632平方ミリ
最小限

また中判が必ずしもコストアップにつながらない要因が、前章でお話ししたポジの大きさという点です。35ミリは小さく直接見づらいために、少なからずの人が必要のないコマまでプリントしてしまいます。これがコストアップにつながります。中判の場合は目で直接良し悪しがわかりますから、本当に必要なコマだけをプリントするようになります。無駄なプリントは出来ません。

以上はフィルムのお話ですが、それよりもカメラ自身のコストに実は大きな違いがあることを後で述べます。そこで中判カメラが一般に高いという誤解があること、35ミリカメラが大変な金食い虫になり安い傾向を持っていると言うことをお話しします。

商業主義からの決別

さてお金のことが出てきたので、カメラの商業主義について話しましょう。前もって書いておきますが、わたしは決してアンチテクノロジーでもないし、アンチ大企業でもありません。自分自身はCCDや半導体、CADなどの最先端のテクノロジーを駆使して仕事をしてきましたし、カメラを作っているN社やC社とも仕事上のつきあいがあってその素晴らしい実力は敬服しています。ここでは、「いかに写真をやるか」という点に重点を置いて考えてゆきます。ですからカメラ自体を趣味している方や収集している方は、快く思わない内容になっています。

日本のテクノロジーは素晴らしいものがあります。半導体、光学機器、等々。しかししばしば弱点として取り上げられるものに、広い意味での「ソフトウェア」があります。例外もあります。日本の素晴らしいソフトウェアとして、漫画、アニメ、ゲームがあります。これはダントツに世界一でしょう。しかし遅れていると考えられているソフトが多くあります。特に数年前までのパソコンソフトはその典型でしょう。多くの半導体部品が日本でまたは日本企業が生産しているにも関わらず、ほとんどすべてのパソコンソフトがアメリカ製という時代がありました。現在でもその傾向は大です。

わたしはカメラにもそのような傾向があると感じています。数年前までのパソコン市場では、とにかく雑誌の記事がハード中心でした。どういうCPUにするか、どういうマザーボードにするか、ベンチマークはどうなっているか、それが「パソコン」という世界の主な話題の中心でした。そこでどういうソフトが走ってどのような事に使えるかというのは何か二次的なものとして考えられていた気がします。そういった傾向はPC系の老舗雑誌とMac系の老舗雑誌の内容を比較するとよりはっきりします。(もちろんMacにはハードの多様性が全くないという背景も影響していますが。)他には日本の音響製品と音楽の関係が比較できます。一般的な音響製品といえば日本製。もちろん日本の音楽はそれほど世界的ではないかもしれないけど、自己表現としての音楽バンドや、コンサートはやる方も聴きに行く方も非常に盛んです。

日本のカメラはものすごいです。こんなにカメラ会社があって、カメラがあふれていて、みんながカメラを持っていて、町中にXX分現像があふれている国は日本だけです。外国に行ってカメラといえば大部分は日本製です。数と質の両面とも日本のカメラは世界を制覇しているといっても良い。ハードとしてのカメラ、記録用としてのカメラ、それはものすごい。では表現形態としての写真はどうかと考えると、こういったハードの進歩・普及と比較して、他の国と比べて進んでいるかというと全然進んでいない。売れる写真集といえばヘアヌードばっかり(といってももうそれも廃れてしまった。)出版業界では写真集のことを「墓石」と呼ぶそうです。本屋の隅に積まれているだけ。写真展なんて絵画展と比べて行く人の数はなきに等しい。これはハードの現状と比べてものすごい落差です。

なぜこういうことになってしまっているのか?日本人はソフトよりもハードが得意である、っていうのは前にあげた他の分野のことを考えてみれば全くのウソであることがわかります。現在のカメラ業界の商業主義、少なくともそれに理由の一端があるというのがわたしの個人的な理由です。そして35ミリをやっているとその商業主義のまっただ中に身を置いてしまいがちです。中判ではその傾向は遙かに少ない。中判を始めてまず感じたのは、自分は35ミリやいまやむしろデジカメの世界の商業主義に陥っている部分があったとわかったことです。商業主義に巻き込まれてしまったあなた。買ったのに使っていない、「必要だ」と錯覚して買ってしまった、「必要だった」と錯覚して使っている、こんな事がありませんか?ここでカメラ病の危険信号を診断してみましょう。

  カメラ病のポイント
  1点 2点 3点
日本カメラを買う タマに買う タマに忘れる 毎月買う
アサヒカメラを買う タマに買う タマに忘れる 毎月買う
カメラマンを買う タマに買う 毎月買う  
新製品紹介を読む いつかは読む そのうち読む 真っ先に読む
製品レポートを読む いつかは読む そのうち読む 真っ先に読む
カメラ屋へ行くと 希にイジル タマにイジル 絶対カメラをイジル
中古屋へ行く タマに 隔週 毎週
レンズ名を知っている それなりに 半分ぐらい ほぼ全部
使ってないカメラについて 一月使ってない 3ヶ月使ってない 半年使ってない
使ってないレンズ 一月使ってない 3ヶ月使ってない 半年使ってない
3ヶ月使ってないカメラの台数 一台以下 2台 3台以上
3ヶ月使ってないレンズの本数 一本以下 2本 3本以上
カメラ・レンズのローンが 以前あった ある 重なっている
デジカメのサイトのチェック 希に タマに 毎日
毎月の撮影本数÷カメラの数 1以上1.5未満 0.5以上1未満 0.5以下

さて、あなたの得点は何点になりました?0-7点:病気になるにはまだ時間があります、8-14点:意識していれば病気にならずにすみます、15-24点:すでに初期の発病が出始めています、24点以上:れっきとした病気です。カメラ病の恐ろしいところは自覚症状が非常に少ないと言うことです。もちろんカメラを10台20台ともっている人は病気ではなくて、自覚症状のあるコレクターです。ちなみに私自身は15点でした。「デジカメのサイトのチェック」の「毎日」が効いてしまった・・・。

雑誌に新製品のレポートが載る。以前の物と比べて「ここがどう向上した」「この使い勝手は素晴らしい」プロの人が「魅力ある製品で、是非使ってみたい」何て言っている。それを読むとどうしても買いたくなる。考えることと言えば、写真そのもののことよりも、カメラの事になってしまう。自分の一日の思考の中で、「カメラか写真」の事を考えている時間を意識してみてください。その中で、ホントに純粋に写真だけの事を考えている割合ってどのくらいですか?あのレンズがほしい、このアクセサリーがほしい、あっちの三脚がほしい、あのXXが使ってみたい、そんな"モノ"の事ばかり考えていませんか?あのとき露出補正をこうすれば良かったとか、三脚を使うべきだったとか、そういう「カメラ操作」に付随したことでもダメですよ。純粋に自分は何をどう撮ってというカメラとはまったく離れた次元で写真について考えていますか?そういう時間の割合が十分にありますか?常に何らかの形でカメラに付随した写真のことばかり考えていませんか?もしそうだったらそれはまさにカメラ病に侵されているのです。

あなたがカメラ会社を運営すると仮定して、どんなカメラを作りますか?もちろんあなたの従業員は何百人といて決して倒産させるわけには行きません。中判カメラを製造しますか?イヤ、そりゃもちろん35ミリかデジカメでしょう!そもそもカメラとかレンズの本来の寿命なんて一生ものです。プロ用の機材をアマが使えば"二生"くらい使えるかもしれません。中判カメラや本格的なメカニカルの35ミリだけを製造していたのでは、その層のお客に製品が行き渡った時点であなたの会社は確実に倒産します。一旦買ったらそんなに買い換えないのですから。では、どのように会社を存続させてゆけばよいでしょうか?それは小さくて量産しやすい、電子制御を元にした35ミリカメラ(やデジカメ)に様々の機能を付けて、ああだこうだと少しづつ性能を改良していって(もちろん光学性能は多少犠牲にしても)、1,3,5,7,9,10・・・といった機能や性能によってランク付けをして様々の客層に対応した機種を作ってゆけばよいのです。「カメラが行き渡ってしまう」何てことは全然心配する必要はありません。だって、そういった1,3,5,7,9,10・・・機種に少しづつ改良を加えて、その機能・性能を大々的に宣伝し、毎年毎年買い換え(買い足し?)させれば良いんですから。AEやAFなんて所詮は完全ではありません。完全でないから常に改良することがあるわけで、これはつきることがありません。産業の進歩で素材や電子技術はどんどん進歩してゆきますから、それを少しづつ確実に取り入れてゆけばいいんです。もちろん宣伝も重要です。コマーシャルはもちろん、カメラ雑誌などにも製品レポートしてもらって、新しく改善した点を逐一ユーザに知ってもらわなければなりません。プロのカメラマンにもそれなりのお言葉をもらって、そのカメラで撮ると自分の写真が良くなるように思わせないといけない。そうやってとにかく、買う側の購買欲をとことんまで刺激して、買い換え、買い足し需要を作ってゆけばよいのです。別に、これは必ずしも悪いことではありません。性能・機能が良くなることには違いないのです。多点測距、多分割測光、超音波モータ、ブレ防止、非球面ガラス、低分散ガラス、こういった本質的に新しいものを取り入れてゆくことによって、日本のカメラは世界一になってしまった。はっきり言って「モノ」として素晴らしいモノができあがっていると思います。車の市場とと似たところがあります。

じゃ、こういった素晴らしいモノでとった写真って言うのは、性能・機能に比例して良くなってるんでしょうか?必ずしもそうではない。じゃ、表現としての写真はカメラにAEやAFがなかった時代と比べて社会的に認知され楽しまれるようになったのでしょうか?必ずしもそうではない。カメラの性能・機能とそれを使って撮れる表現としての写真とは必ずしも対応していないのです。もちろん報道やスポーツ写真ではEOS3が出る前と後では撮れてくる写真が違うということは言われています。しかし、他の表現の写真ではそういうことではないんです。

もちろん、「趣味としてのカメラ」を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、それは本当にあなたの心から自発的に起こった興味なのですか?あなたはいまの35ミリの商業主義にまったく影響されていないと言い切れますか?あなたの趣味のカメラは、メーカーによって半ば作為的に趣味にされているという側面はありませんか?ヨーク考えてみてください。一つこういう実験をしてみて下さい。三ヶ月間すべてのカメラ雑誌を止めること。三ヶ月間カメラ売り場は素通りすること。友人とカメラの話題は極力避けること。とくにカメラ雑誌の影響力は絶大です。最初カメラ自身に興味がなくても、いろいろな写真を見るだけに買ってもカメラのことは書いてありますから目に入ってきます。さらにコンテストに応募するようになれば必然的に買ってしまいます。そういったことをしばらく全部止めてみてください。もちろん雑誌代で浮いた分、フィルムを買って撮影することは言うまでもありません。そういうことをしばらく続けてみてください。そして三カ月経って自問してみてください。自分は不必要にカメラ雑誌に影響されていたかどうか。

私の個人的な見解ですが、現在の(記念写真的でない写真の)カメラ市場というのはまさに、メーカー・カメラ雑誌・雑誌ライター・ユーザが一体になって創り出している商業主義的な閉じた輪なのです。おもしろいのはメーカーとユーザーだけではこの輪は成立しません。情報や刺激が十分に伝わらないからなのです。この両者の間にカメラ雑誌と雑誌ライターが入り込んで、非常に強固な輪となって35ミリカメラ業界を支えているのです。デジカメの世界では雑誌という媒体に加えてネット上のホームページや掲示板が重要な役割をしています。これらの輪とカメラメーカ間の競争が相乗効果になってカメラ産業とカメラ技術の発展があるのです。このメーカの部分には中古のライカ市場とかも加えておきましょう。ライカ熱を刺激するような記事、雑誌、本もあふれています。私の見解ではこのことと表現手段としての写真は、かなり分離したものなのです。さらに個人的見解ではこのカメラ商業主義は、写真という表現手段を広く認知して、また人の生活の一部分としてエンジョイ出きるようになる事とは、相反する部分がかなりあるといわざるを得ないと思います。もちろんカメラが売れると言うことは、雇用促進になるし、雑誌が売れれば出版社やライターさんの生活が成り立ってゆきます。プロの写真家もおこぼれに預かることが出来ます。ですから、これでみんなハッピー(経済的に)で何が悪い、となるのですが、まさにそれが商業主義なのです。経済的・物的に豊かになればそれでよい、というのがまさに商業主義です。35ミリをやる以上、多かれ少なかれこの商業主義に身を置かなければなりません。そしてかなり典型的に起こることは、35ミリしかやらないと、いつしか感覚が麻痺してしまって、(非自発的に)カメラを趣味にされてしまい、カメラ・レンズ・アクセサリー買うのが楽しくてしょうがなくて、必要のないモノまで買わされてしまって、いつしか写真そのもののことを感じたり考えたりする時間が減ってゆくのです。

一方、じゃあ、それだけを製造していたら(日本では)確実につぶれてしまうような中判カメラなんか使って、自己表現・自己表現と偉そうなことを言っていたって、結局カメラそしてフィルム業界は35ミリで成り立っているんだ、35ミリがなくなってしまったらカメラもフィルムも作れなくなってしまうんだ、という声も聞こえてきます。それは全くの真実です。まさにその通りだと思います。また政治的にどうこうといっているのではないのです。自己表現としての写真をやりたいという思いのある方は、まだでしたら商業主義に影響されにくいという意味でも中判を始めたらいかがでしょう、ということなのです。35ミリやデジカメをやっていて、中判を始めてからハッと気が付くことは、自分が「なんて商業主義の影響を受けていたんだ」と痛感することです。私自身も例外ではありませんでした。

撮れる写真の特徴

画角

35ミリをやっていると気がつきにくいのは、カメラやフィルムのフォーマットによって、撮れやすい写真・撮れにくい写真というものがあるということです。35ミリでも一眼レフとレンジファインダーでは撮れる写真が違うと言うことはいわれることがあります。(しかし、35ミリの場合しばしば引き合いに出されるのは、ライカとそれ以外と言う形が多いですが、それは錯覚の部分もあるのは完全に否定できないでしょう。) まずは、最も基本的なフィルムのフォーマット(大きさでなくて、横長比)を考えましょう。

35ミリ 中判 大判
  645 6x6 6x7 6x9 4x5 8x10
24x36mm 42x56mm 56x56mm 56x69mm 56x82.6mm (100x125mm) (20x25cm)
1:1.5 1 : 1.33 1 : 1 1 : 1.23 1:1.475 1:1.25 1:1.25

まず目に付くのは35ミリの縦横比は6x9のそれに同等(さらにわずかに長い)だということです。中判をやっている方にとっては6x9というのはある意味で特殊で、風景写真とか集合写真以外はほとんど使われることがありません。つまり35ミリというのは非常に横長の画面なんです。このことは私も中判を始めた後で35ミリでも取り出してやっと気がつきました。非常に長目の35ミリは、風景などの横構図には適しているが、近距離の横構図や、縦構図には一般にその長さをもてあましてしまう事が多いのです。35ミリしか知らないと逆にこの35ミリの特徴を良く理解せずに、写真を撮ってしまいがちです。

ポートレートで頭をこのように切ると、首が延々と入ってします。明らかに35ミリでは長すぎる。 35ミリの縦を生かそうとするとこういう構図がいい。

35ミリの縦を生かすとすると、ポートレートではウエストアップかさらに一般的に収まりの良いのは足までも入れた場合でしょう。経験的にポートレートで非常に収まりの良いのは6x7です。

さらに非常におもしろいことに、この35ミリの長目のフレームはしばしば阻害されていると言うことを発見しました。プリントする場合は、古典的な印画紙の大きさ35ミリに対応していないので、「ノートリミング」を指定しない限り、横端が大幅にカットされてしまう。他にもひどい例があるのです。私が35ミリのポジを初めてスライドマウントに入れたときは非常に激怒しました。35ミリのフィルム上の画角は24.2ミリx36ミリあります(MZ-3の場合)。しかし富士フイルム純正のマウントの枠の大きさはなんと、22.8ミリx34ミリしかないのです!横手方向は実に両端1ミリづつもカットされてしまう!これでは、マウントしたときの視野率が34/36=94%になってしまう。これは中判をやっている感覚からすると、何で俺が決めた構図を勝手にカットするんじゃ!と怒り狂ってしまうほどだ。これでは横長の構図をぎりぎり生かしたいと思っても困ってしまう。想像するに一眼レフの視野率は92%ぐらいなので、フィルムの端には余計なものが写ってしまいがちであるから、富士フイルムさんは親切にあらかじめカットしてくれているのではないか?まあ、別の言い方をすると35ミリの構図感覚というのはその程度のものでしかない、と言うことにもなる。さらに、そもそも絶対的な面積が小さいので、端の誤差に影響されやすく精密な構図を勉強するには不向きであるという事もいえるのではないでしょうか?加えて、雑誌などの印刷媒体の縦横比は、日本カメラやアサヒカメラを例に取ると18.0cm x 25.7cm = 1:1.43になっています。良く雑誌の一ページ全面に写真が転載されていることがありますが、あれはもし35ミリで撮っていたなら、写真の上下はカットされてしまっているわけです。しかし最近,木村伊兵衛さんの写真集を見ましたが,35ミリの縦構図はその長さをおしみなく生かしていますね。さすがだと思いました。

6x6の正方形画面はは明らかに他のどのフォーマットとは違っています。取れる写真が全然違います。現在自分では6x6が中心ですが、ハッキリと言葉で記述できるようにその特徴を考察したことはありません。一ついえることは、普通に裸眼で見た感じと違うので、独自の味を得ることが出来ること。正方形なので安定した感じがあること。画面の端の方でもその重みは中心の重みに近いほど重要なこと、などがあると思います。

6x7はポートレートに非常に適していると思います。6x6よりも少し細長いだけなのですが、たったこれだけの違いで非常に多大な違いが生じるのはなんておもしろいことなんでしょう。ポートレートでは非常に収まりがよい、と言うことを痛感します。(ちなみに6x9でポートレートを撮る人はいません。これまでたった一例みたことがあるだけです。)一般のスタジオ撮影では、1:1.25の画角比の6x7, 4x5, 8x10が使われている事からもこの事は理解できます。

機動性

重さ

中判は構図からして35ミリとは違うという話をしましたが,機動性という面でも大きく違います。中判の場合はAE/AFが必ずしもついていない,また重量も重いという点から機動性は落ちることになります。特にポケットからぱっと出してぱっと撮るというやり方は中判ではできません。もちろん35ミリの場合でも一眼レフではやはり出して持っていないと同様ですが。中判でも1kgを切るものは結構あります。重さは撮影者の「撮りたい」という姿勢の強さに大きく依存します。中判の場合はそれなりに撮影者にその姿勢を要求するかもしれません。しかしちょっと考えてみましょう。いわゆるカメラや撮影が趣味の方でありがちなのはやたら交換レンズやグッズをカメラバッグに入れて持ち歩かないと「撮影」する気分になれないということがあります。これはまったくナンセスといわざるを得ません。35ミリでぎりぎり持ち歩けたとしても,中判でそのようなことをやったら「重過ぎる」に決まっています。なんでもかんでも撮ろう,すべての場合に対応しよう,とする必要は全然ないのです。私は日常的にブロニカSQAi+80ミリ(約1.6kg)とMZ-3+70-200ミリF2.8(約1.8kg)をデイパックに入れて持ち歩いていますが,慣れてしまえば全然苦になりませんし,これでもほぼすべての場合に対応できます。ここまで行かなくても全装備を2kg台で抑えることは簡単にできます。そして「今日はのんびりスナップ」ときめて二眼のYashica−Mat124オンリー(1kg)で出ることもあります。要は,重量が問題になるスナップや旅行のときは,中判の場合はのんびり構えて,そのカメラとレンズにじっくり一日付き合うことです。「撮ってやるぞー」ではなくて,「町や人に撮らしていただく」という姿勢になってきます。そのことは撮れる写真にそのまま反映されます。

対話

そのときの一応カメラは撮る体制で手に持っているということろから考えて見ましょう。これはAEのこととも関係するのですが,中判+露出計でやる場合は露出行為から違ってきます。35ミリでは撮ろうと思ったらすぐにカメラを向けるわけですが,実はここに,覗くタイプの35ミリとウエストレベルのできる中判との大きな違いがあります。スナップの場合はウエストレベルで首から下げているだけで,すでにある程度「写真」が見えるのです。歩きながら手元を見ていれば「写真」がちょくちょく入ってきます。これは35ミリではまったく味わえません。で,一番の違いは中判の場合は「対象との対話」が起こるという点です。入射露出計で対象にあたっている光を測光するということは対象の近くへ行かなければなりません。「今日は測らせてくださいね」という対象との対話が起こります。これは写真に影響していること大だと思います。35ミリのAEで撮るとなんていうか対象との距離を保ったまま撮ってしまう,結局自分は部外者なんだとという姿勢になりがちだと思います。「対話」の観点からもう一つの違いが起こる原因として,35ミリの場合は昨今はズームがあたりまえになってしまったという点があります。ズームを使っていると自分はどうしても動いて調整しようという気がなくなってしまいます。もともと対象とある程度距離があった場合に,ズームを持っていると近づいて調整するよりもズームアップして調整してしまいます。ズームが基本的にない中判の場合は自分が動いて調整します。「最終的な構図は同じじゃないか」と思われるかもしれませんが,これが違うんですね。35ミリはAEだし,ぱっとカメラを向けて,ずーっとズームして終わりです。中判は露出を測ったり,距離を決めたりと対象の周りをうろうろします。うろうろしていると最初に見えてこなかったモノが見えてくることがあるのですね。対象が良く観察できるというか。35ミリのこの撮り方だと結局はとうりすがりのものになってしまいがちなのですが,中判だと撮るものとのある程度直接な対話があるのです。それは出来上がる写真に必ず影響してきます。具体的にどのようにといわれると十分まだ説明できないのですが・・・。35ミリでも昔のように50ミリがあたりまえだとちょっと状況は違うのですけれどね。わたしは「35ミリは盗る、中判は物や人との対話」だとおもいます。

AE/AFの功罪

AE/AFの問題は特に中判であることに直接結びついているわけではありません。これは特に35ミリがAE/AFがあたりまえになってきているのに中判ではそうでないので,AE/AFでないことは中判のひとつのよく見られる性格になっているからです。しかし最近は中判も645の一眼レフタイプはAE/AFが侵食してきてます。AE/AFの最大の問題は,その測光点や測距点が画面の特定の部分に位置しているということです。これは単にテクノロジーの問題であって,私はAE/AFが根本的良くないものであるといっているわけではありません。現在のAE/AFはいずれも構図を決めるための「潜在的な障害」になります。さらに高度なAEは「自分の露出表現の障害」になります。

まずより単純なAFから考えてみましょう。そもそも焦点を合わせたい部分が視野の中央にあると限らないのです。これはあまりにもあたりまえのことなのですが,これが案外ないがしろにされているのです。もちろんAutoFocusでなくても,フォーカシングスクリーンの中央にスプリットイメージやマイクロプリズムのあるもの,あるいは二重像合致のレンジファインダーはAutoでなくても実は同様の問題があります。これらのカメラではピントを合わせたい部分をまず中央の測距部分に持ってゆかなければなりません。で,ピントを合わせてから作りたい構図へ視野移動するわけですが,人間怠け者ですからなんとなく物体を中心近くに置いてしまいがちです。それに,必要な構図つくりをしているときに相手が動いてしまったらまた視野を戻さないとピントの確認ができません。さらに三脚を使っているときは救いようがなくなります。「理想的なカメラは視野のどの部分でもピントあわせができなくてはならない」のです。どこでも合わせられることによって,構図あわせとの矛盾が解消されますし,三脚でも問題なくなるし,相手が動いてもいつでも対応できます。そういう意味で今のカメラは欠陥カメラなのです。マニュアルフォーカスの場合はまだ救いがあります。なぜなら撮影者が画面のボケ具合を見ながら自力でフォーカスあわせをするという行為に慣れてきますから,必要であれば測距部分でないマット部でピントを出す気力が起こります。最悪なのは現在のAutoFocusです。撮影者はもうシャッター半押し以上のことが億劫になってしまいますから,画面端のマット部でマニュアルでピントを合わせるなんてことはしなくなります。「でも,最近は多点測距があるじゃないの」といわれるかもしれませんが,これはさらに状況を悪くします。なぜなら単点測距よりもさらに自動機能に依存してしまうからです。5点だろうが,45点だろうが,それがカメラが決めた位置に配置されていることに変わりありません。単点測距でAFの限界をよく認識して使っているほうが,多点測距に深く依存してしまってAFの限界を忘れてしまうよりもはるかにましです。K社のようにいわゆる「黄金分割」で測距点を配置して,あたかも構図に対する配慮があるよう錯覚させるカメラもありますが,それはあくまでカメラが与えた構図,教科書的な構図であって,それが撮影者の意図するあるいは撮影者の感性からくる構図と一致しているかは全然わからないのです。むしろ撮影者独自の本当に何よりも大切な感覚から湧き出てくるものを押さえ込んで殺してしまうのです。まあ,いつの日かC社が,視野全面の視線入力AFを作ってくれることを祈っています。その日に初めて撮影者はAFが勝手に与えた構図から開放されるわけです。(別口ですが,最近の高度な動体測距は人間の能力を超えた部分がありますから,それによってこれまで撮れなかった写真が撮れるという貴重な進歩はあります。)

AEのほうはあまりにも一般的になって、それがどういう影響があるか忘れがちです。もちろんAEの測光点は通常カメラの中心にありますから(あるいは中心に重点がありますから)、これも構図を決めるための障害になります。この点はAFの場合と同様ですので、説明は省きたいと思います。しかし、多くの35ミリAE/AFカメラはシャッター半押しでAEとAFの両方がロックになってしまうので事態はさらに面倒になるということが現実に起きます。測光したい点と測距したい点が別のことはしばしば起こるからです。(このため35ミリでもMZ-3などの特定のカメラではAEロックが別ボタンでできます。)標準的な光の状態ではAEで全然問題ない場合でも、非常にこれぞという場合に結構困ります。

最近の645などは35ミリ化してしまって、基本がAEになってしまいましたが、まだ多くの中判はAEでなくて露出計を使うのが標準的です。そもそもなんでそんな面倒な事をするのでしょうか?使ったことない人は「面倒」だとおもうでしょ。それがまず非常に大きな誤解です。まず、露出計を使うことによって上に述べたようにフォーカス操作や構図決定との矛盾が起きなくなります。露出は露出でそれに専念して決定できます。それからさらに誤解があるのは、AE(カメラ内蔵露出計)には根本的な欠点があることです。露出に関するカメラの入門書を見てみましょう。「対象物の色や反射率に対して・・・」ということがたくさん書いてあります。AEが計っているのは物体の反射光なので、色や反射率の影響を受けてしまって、物体と測光点の位置関係で、数値が非常にめまぐるしく変化します。で、これをうまく補正してやることがあたかも「露出の達人」のように書いてあるのが一般の雑誌の記事や入門書です。カメラとは別の単体の露出計を使うと、物体に入ってくる光の量を測光しますから、数値は非常に一定しているのです。雲が行ったり来たりしていなければ、とっても安定しています。なので、慣れれば単体の露出計の方が時間は少しかかりますがかえって対象に集中できるのです。AEでは対象のどこで測光して、それだけ補正をかけるかを対象を見ながら脳を働かせるので集中力をそがれる感じがあります。単体露出計では、対象を見ているときにはすでに露出のことは決まっていますから。

さらに、単体露出計を使った場合に、やはり自分で露出をコントロールするという意識がはじめから強いですから、「露出による表現」も自己表現の中に入れやすくなってきます。AEを使っているとどうしても機械に頼りがちになり、「標準的な露出」に甘んじてしまいがちになります。人間とっても怠け者ですから、ある程度のレベルのものを自動的にもらってしまうと、どうしても自分独自のものをあえて付け加えるのは億劫になってしまいがちです。特に最近の多点測光あるいはマルチ測光は計算機が非常にいろいろなケースを想定してそれなりの「標準的露出」をかなり高度に算出してきますから、そうやっているうちにAE漬けになり、いつしか自分の露出表現を追及できなくなってしまいます。特にAE/AFのあたりまえの35ミリの世界では「露出による表現」という意識すら希薄になってしまっています。写真では「適正」露出はあっても、本当に追求してゆくと「標準」露出は存在しないと思っておくのが正しいと思います。もちろん「標準的」露出を使う場合は多くありますが、そこには自己表現は入っていないのだということを肝に銘じておくべきです。標準的な露出から、1段も2段もずれたところに自分の適正露出があることもしばしばあるのです。何か、雑誌や入門書を読むと「標準」露出から外れることがさも悪であるような記事がありますが、それは非常に大きな間違いです。そういう記事が日本の写真のレベルをどんどん悪くしていると思います。

なぜ中判か-つまり

雑誌や入門書を見ると中判の良いところは「画質の良い」ところだということが、さももっともらしく書いています。まあ数字的にいえば確かにそうです。私も最初はそう思いました。それは実はぜんぜん大嘘なんです。画質は確かに良いのですが、中判の本当の意味はそこにあるのではないのです。そういう記事を書いている方は中判を本当に使っていないか、全然意味のわかっていない人なのです。

「なぜ中判か」、それは第一にやはり自分の写真の世界が圧倒的に広がるということです。35ミリはまるで島国日本、商業主義日本そのものです。写真というものはそんな狭い一過性のものではないのです。もっといろいろな視点があり、いろいろな美意識があり、いろいろな価値観があることを島国にいると全然わからないものなのです。そういう別のもっと広い世界があるということすら知らないというのは本当に恐ろしいことです。別に外のものが必ず良いというわけでは全然ありません。仮に島国日本が大好きで(私はそうですが)、35ミリの世界をやるにしても、外の世界を知った上でやるのと、知らないでやるのでは全然違います。外の世界を知って初めて自分の世界の意味がわかってくるのです。画角のところで書きましたが、35ミリの本当の良さを知るためには中判の世界を知っていなければならないと思います。

第二に中判は「絵作り」という点で圧倒的に優位です。構図を自然と考えるようになるスリガラス、直接脳に刺激がくる人間的な大きさのフィルム、一コマ一コマをじっくり撮影させてくれるマニュアル操作、商業主義から逃れたところでの自分の作品との対峙、そういう圧倒的に自分と写真本来の関係を作らせてくれる、それが中判です。

 

ここまでお付き合いありがとうございました:

以上、今の雑誌や入門書では欠落している中判の意味について述べてみました。少しは興味を持っていただけたでしょうか?次からの章では具体的なカメラ選び、カメラの使い方、撮影のコツ、などなど実践的な内容に入ってゆきます。これらの点でも雑誌や入門書に書かれていないことがたくさんありますのでお楽しみに。